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東京高等裁判所 昭和32年(う)1841号 判決 1958年2月24日

被訴人 原審検察官 池田貞二

被告人 小野寛治

検察官 大島功

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役二年に処する。

押収にかかる鉈一挺(昭和三二年押第六一一号の一)を没収する。

原審並びに当審における訴訟費用は、被告人の負担とする。

理由

水戸地方検察庁土浦支部検察官検事池田貞二の控訴理由は、末尾に添付する控訴趣意書と題する書面に記載するとおりである。

ところで、原判決が被告人に対して無罪の言渡をした理由の中、「当裁判所の見解」の項において、被告人の原審公判廷における供述、被告人の検察官に対する供述調書(三通)、証人塚本八重子の原審第三回公判調書中の供述記載、証人小野よう、同塚本孝夫の原審第四回公判調書中の供述記載、証人小倉喜久乃の尋問調書、塚本孝夫、塚本よね子、小野進、小野よう、塚本八重子、小倉喜久乃の司法警察員に対する各供述調書、医師小林二郎作成の鑑定書、司法警察員並びに原審の各検証調書、押収にかかる鉈一挺、屋根鋏一挺の各存在を綜合して、被告人が昭和三一年一〇月三一日夜居宅内土間において同部落民であつた屋根職小倉寅一(当時四一年)に鉈をもつて斬りつけた結果、頭部切創による左大脳損傷のため、これを即死させるに至らしめたという事実を認定したが、その判示する行為の動機、態様、行為当時の事情、状況は、すべて、当審において行つた検証並びに証人尋問の結果に徴してみても、決して誤つてはいないということができるのであつて、被告人の所為は、まさに、小倉寅一の急迫不正の侵害に対し、自己の生命身体を防衛するための反撃行為に外ならなかつたということができるのである。そこで、原判決に重大なる事実の誤認があるとして、(1) 小倉寅一が屋根鋏を被告人に突きつけて立ち向つたとしても、その動作は緩慢で一瞬の余裕のない切迫したものではなく、従つて、それには急迫性が認められないのみならず、(2) 真実、被告人に危害を加える意思があつたものとは、とうてい、考えられず、それは単におどかしに過ぎなかつた、しかも(3) 被告人はそのことを看取していたのであるから、これに対して被告人において防衛行為に出ずるわけはなく、被告人の鉈をもつて斬りつけた所為は、小倉寅一に対する敢行的殺人行為である、とする所論は、証拠に対する価値判断を誤つた結果、却つて事実に副わない主張をするものであつて、もとより採用するわけにはいかない。しかし、原判決はその認定にかかる事実に対して法律を適用するに当り、被告人の最初の一撃は刑法第三六条第一項に該当する正当防衛行為であり、その一撃によつて横転した後の小倉寅一に対する三、四回に亘る追撃的行為は盗犯等の防止及び処分に関する法律第一条第二項に該当する無処罰行為だとした点は、これら両法条の解釈適用を誤つた違法あるものといわなくてはならない。そもそも、同一の機会における同一人の所為を可分し、趣旨を異にする二つの法律を別々に適用するがごときことは、立法の目的に副わない措置であつて、とうてい許されない所である。被告人は小倉寅一の急迫不正の侵害に対し、自己の生命身体を防衛するため、鉈をもつて反撃的態度に出たのであるが、最初の一撃によつて同人が横転し、そのため同人の被告人に対する侵害的態勢が崩れ去つたわけであるのに、被告人は異常の出来事により、甚だしく恐怖、驚愕、興奮且つ狼狽したあまりとはいえ、引きつづき三、四回に亘り追撃的行為に出たのであるから、被告人のこの一連の行為は、それ自体が全体として、その際の情況に照らして、刑法第三六条第一項にいわゆる「已ムコトヲ得ザルニ出デタル行為」とはいえないのであつて、これは却つて同法条第二項にいわゆる「防衛ノ程度ヲ超エタル行為」に該るものといわなくてはならない。果して然りとするならば、被告人に対しては無罪の言渡をすべき筋合ではない。しかるに、原判決は論旨第二点において指摘するがごとき法律の解釈適用を誤つた結果、被告人に対して無罪の言渡をしたのであるから、原判決はこの点において破棄を免れない。それで、同論旨は理由あるものというべく、刑訴法第三九七条第一項に則つて、原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書に従つて、次のごとく判決する。

原判決が認定した被告人の判示所為は、その挙示する証拠によつて刑法第一九九条に規定する殺人罪の構成要件に該当することが明らかであるが、その所定刑中有期懲役を選択する。しかし、該所為は同法第三六条第二項に規定する過剰防衛行為をもつて論ずべき場合に該るので、その規定する所に従い、その刑を減軽又は免除することができる。もし、被告人の恐怖、驚愕、興奮且つ狼狽に出た判示所為が宥恕すべきものと認めることができるならば、その刑を免除するの挙を選ぶことができようが、その使用した兇器、その所為の態様等の点から観て、とうてい、宥恕すべきものとはいえないので、その刑を減軽するに止め、同法第六八条第三号を適用して、右有期懲役刑を減軽した刑期範囲内で、被告人を懲役二年に処すべく、押収にかかる鉈一挺は被告人が本件犯行の用に供した物であつて、犯人以外の者の所有に属しないので、同法第一九条第一項第二号第二項本文に従つて、これを没収すべく、原審並びに当審における訴訟費用は、刑訴法第一八一条第一項本文を適用して、被告人をして負担させることとして、主文のように判決する。

(裁判長判事 尾後貫荘太郎 判事 堀真道 判事 荒川省三)

検察官池田貞二の控訴趣意

原判決は本件公訴事実である「被告人は昭和三一年一〇月三一日夜、屋根職小倉寅一(当時四一年)が酔余些細なことから、塚本孝夫等と殴り合いの喧嘩を始めたので、被告人等が仲裁したところ、これを不満に感じた小倉が余憤のおさまらぬまま、同夜九時頃肩書被告人宅を訪ねてきたが、被告人が姿を隠していたため、直ぐに同家を立去つたので、これを見た被告人が座敷にいた母よう等に「寅ちやんはもう来ねいよ、大したことねいから大丈夫だ、どうせ大したことねいから」と放言したところ、これを戸外で聞きつけた小倉が再び被告人方に立戻るなり「大したことねえつちや、何だ、此の野郎、表に出ろ」と怒鳴りつけ、いきなり被告人の手を引張り出し、更に、被告人方出入口附近に置いてあつた、屋根鋏を両手に持ち、被告人に立向つてきたので、被告人は余りに執拗な小倉の態度に激怒し、後退するうち、ひよいと後方を振返つたところ、たまたま附近の腰掛の上に鉈が置かれてあるのを認め、咄嗟に同人を殺害しようと決意し、その鉈を右手に掴むなり左手で屋根鋏を払いのけ、鉈を振つて小倉の左側頭部めがけて一撃を加え、更に踏込んで、ふらふらと倒れる小倉の同部附近に追撃を加えて、その場に横倒れになつた小倉の頭部めがけて更に鉈を振つて三、四回切りつけ、因つてその場で同人を頭部切創による脳損傷のため即死させて殺害したものである。」との事実につき、理由を説明した上、結論として本件被告人が被害者より蒙つた侵害は急迫不正のものであつて、これに対する被告人の攻撃は、その侵害に対し自己の生命身体を防衛するために止むことを得ざるに出でたる行為で、正当防衛をもつて論ずべきものであり、且つ、被害者が横転した後の被告人の追撃行為は、盗犯等の防止及処分に関する法律第一条第二項第一項第三号に該当する行為を以て論ずべきものであるとして、刑事訴訟法第三三六条前段の被告事件が罪とならないときと言うに該当するとの理由で、無罪の言渡をしたのである。然しながら右判決は左記の理由により破棄せらるべきものと思料する。

第一、原判決には重大なる事実の誤認があり、その誤認は判決に影響を及ぼす事が明らかである。

一、原判決は理由に於て当裁判所の見解として「被告人の当公廷に於ける供述、………略…………を綜合すれば、被告人は昭和三一年一〇月三一日肩書居村靖明神社の祭礼の祝酒を同部落民たる小倉寅一(当時四一年)等と共に飲んだのであるが、右小倉はかねがね酒癖悪く、同夜八時頃には同部落七三三番地の三塚本孝夫方に於て小野進と口論の末唐鍬で同人の肩をなぐり、塚本孝夫や騒ぎを聞きつけ同所に来た被告人等に仲裁せられたが尚も小野進の家え殴り込みに行くと称してでかけたので、塚本孝夫に引止められたところ、同人が所持していた棒でなぐりかかり遂に右塚本から数回なぐりかえされた為、余憤やる方なく同夜八時四〇分頃同部落七三三番地の自宅より全長約八十糎刃の部分約一七糎の業務用屋根鋏(昭和三一年押第七三号の二)をもち出し(誰も居ねえのか、野郎殺しちやうから」等と怒鳴りながら被告人方庭先を通つて塚本孝夫方に赴き更に引返して被告人方土間に入り誰の姿も見えなかつたので又同家を出て自宅の方へ姿を消したので、右小倉の動静をひそかに見守つていた被告人はもはや小倉は自宅の方え帰つたものと思い、被告人方奥八畳間に恐怖の余りふるえていた同人の母よう等に向い安心させようと「寅ちやんはもう来ねいよ、大したことねえから大丈夫だ」と告げたところこれを戸外で聞きつけた小倉は被告人方土間に侵入し同所小縁に腰かけていた被告人に対し「大したことねえちや何だ、この野郎、表に出ろ」と怒鳴りつけ被告人の左手を掴んで土間入口迄引きずり、右出入口附近に置いてあつた屋根鋏を両手に持ち被告人に立向い刃先きを同人の首近く突きつけ二、三回チヨキチヨキと音を出てて鋏を開閉しながら「この野郎殺してしまうぞ」と申向けて威嚇しつつ該土間の一隅に追い詰めたので、被告人はじりじりと後退するうち足許の莚につまづいてよろめき右手が附近の腰掛の上にあつた鉈(前同押号の一)に触つたので茲に於て被告人はこのままに推移すれば真実殺されてしまうものと考え自己の生命身体に対する危険を排除するため咄嗟にその鉈を右手に掴み左手で目前の屋根鋏を払いのけ鉈で右小倉の左頭部辺をめがけ斬りつけて一撃を加え、ついでよろけながら屋根鋏を落した同人の同部を追い討ちに殴りつけ、その場に同人を横倒しにさせたが若年の被告人は右の如き小倉の不法行為と、これに基因した異常の出来事により、甚しく恐怖、驚愕、興奮且つ狼狽していたので、更に一瞬の中に同人の頭部、腕等を鉈を振つて三、四回斬りつけ、因つて即時同所に於て同人を頭部切創による左大脳損傷の為死亡するにいたらしめたものであることを窺うに十分である。」旨判示している。

二、原裁判所が右の如く正当防衛の事実認定をなしたことは、被告人の公判における弁解を容れ、その有利に帰する供述を主たる証拠として採用した結果によるものと思料されるが、公判における被告人の供述は、調書の記載により明らかな通り、まことに曖昧なものがあつて発問者である弁護人、裁判長、裁判官の発問如何によりその供述を異同にし少しも首尾一貫することがなく、徒に自己の罪責を免れようとすることが窺われ、事件直後、新鮮な記憶と悔悟の心境において被告人が供述し既に証拠として採用された被告人の検察官又は司法警察員に対する供述調書と対比して措信するに足らないものがある。而して本件は被告人方土間に於て行われ、記録により明らかな通り、当時被告人の母小野よう、塚本孝夫の妻八重子等は奥の八畳間等からこれを見ていたが相当離れており瞥見をした程度であり、他には現場に於て直接これを目撃した証人等が存しないので、本件に於ては被告本人の供述が最大の証拠を為すものである。

三、被告人は検察官に対し「寅ちやんは私の家の土間の南側の入口から屋根鋏を持つたまま中に入り誰もいねえか、誰もいねえか、と怒鳴つていましたが、私も姿を見せず家の人も声を出しませんでした。寅ちやんが何の為に私方へ寄つたのかよく判りませんが、その時の事情としては、私が前に仲に入つたのでしやらくせい等と言つていたのでそんな事でも腹を立てむしやくしやして寄つたのではないかと想像できる位です。誰も家内にいないと思つたらしく寅ちやんは南側の庭に出て自分の庭の方に帰り私方の東南角を東側に曲つてその姿が見えなくなつたので、もう大丈夫家に帰つたものと思つた。私は土間の南側から家の中に入りました。そして八畳の座敷の小縁の所から奥を見ると一番東側の八畳の間に母のよう、孝夫の嫁八重子、孝夫の妹よね子、私の妹喜久子の四人が隠れていて、こわかつた等と言つていましたので私は母等に、寅ちやんはもう来ねえよ、大したことねえから大丈夫だ、どうせ大したことねえから、と何気なく言つた処、この言葉を家の外で聞いていたらしく寅ちやんが、大したことねえちやなんだこの野郎、表に出ろ、と怒鳴り乍ら土間の南側入口から又土間に戻つて来たのです。その時寅ちやんは手に何も持つていませんでした。それで私は、よい年をしてなんだ、帰つたらよかつぺ、と寅ちやんに左手を引張られ乍らも言い乍ら出入口の方に引張られて行つた時、出入口のそばの戸袋の所に屋根鋏が立てかけてあるのが見えました。それで余りに寅ちやんがしつこいので、私も腹を立て手を振り放したところ、寅ちやんは私の手を振り離すなりすぐに屋根鋏を両手に持ち、この野郎、殺しつちまうぞ、と言い乍ら鋏をチヨンチヨンやり乍ら私の方に向つて来たのです。それで私も酒癖の悪い寅ちやんのやり方にびつくりするやら腹が立つやらでそのまま後に下りました。その時土間から奥の勝手場に通ずる戸があいておりましたので、私だけならば直ぐに身をひるがえして奥の勝手場の方に逃げ込みそれから井戸のある外に逃げ出す事もできましたが、丁度家の中には女達がおりましたので、寅ちやんが女達に何か乱暴を働くようでは困ると心配の余り勝手場の方には逃げ出しませんでした。それで私は寅ちやんがどこに出て来るかと良く見乍ら最初は土間を真北の方に下りその中に向きを南東の方に変え乍ら土間の西側にあつた腰掛の方にそろそろと下りて行きましたが、何かが足にさわつたので、ひよいと後ろを振返つた処、足にさわつたのはむしろでした。それと同時に、背の方の腰掛の南寄りの上に何時も山仕事等に使つていた鉈が目に入つたので、突然私はそれで先きに寅ちやんをやつつけてやろうという考えになりました。如何に酒を飲んだ上とは言い乍ら藤夫さん等に迷惑をかけた上、別に理由もないのに私の家に入つて来て、私に屋根鋏を向けて来たので、余りにしつこい寅ちやんの態度に私も本当に腹が立つてしまつたので、やられるよりも先きにやつてやれという気持になつていきなりその鉈に利き腕の右手をかけたのでした。その頃私も夢中になつていたので先きに殺してしまおうと考えていたのです。鉈を右手に掴むと同時に、左手で寅ちやんの屋根鋏を左の方に払いのけるなり、鉈で寅ちやんの左頭部辺りを目がけて一度ぶん殴りました。鉈の柄を握つていたのですから刃が寅ちやんの方に向つていましたし、私は身長五尺六寸位で体重も十八貫位ありましたので、刃の方で寅ちやんを殴りつけた手応えがあつたかと思うと、寅ちやんはよろよろとよろけ乍ら屋根鋏を落しましたので、もう私は夢中になつて更に踏み込んで、又その鉈で寅ちやんの頭の辺りを追い討ちに殴りつけ、その場に横倒れになつた寅ちやんに対しても三、四回位はなおも鉈で同じ頭辺りを目がけて力一杯に殴りました」と供述し(記録三八二丁表乃至三八七丁裏)又司法警察員に対し、幾ら広くても農家の台所のことですから間もなく私は後にあつた莚に足がさわつたので私はちよいと後を振返つたのです。その時莚の側にあつた腰掛の南寄の上にあつた鉈が目に入つたので私はこの鉈で先にやつて仕舞う考えから咄嗟にその鉈を右手に持つて横から寅ちやんの頭で耳の上あたりを狙つて力一杯に殴りつけました。私は山仕事などに使う鉈でありますからそれで頭を殴りつければ相手が死んで仕舞うことは良く判つて居りましたが先に殺してやろうと考えて振り上げたので力一杯に殴り付けたわけです。そうすると寅ちやんは何も言わずに後にふらふらと戻つたと思つたら後向きにばつたり倒れて仕舞つたのです。………私が最初鉈を手にして、やんならやつぺこの野郎と殴付けたのですが手応があつたと思つたら別に声も出さずに倒れて仕舞いました。………私は倒れた側により更に三回位は続けざまに力一杯頭を切付けました。………初めに殴りつけてから相手がよろよろしているときにも何回か殴りつけたので回数にしては先程申したより多いと思いますがその点はつきり致しません。只倒れてから頭を三、四回続けて切りつけたことははつきり憶えて居ります。以上申上げました様に私は寅ちやんを殺して仕舞つたのですが私は頭の割れたのを目の前にして大変なことをして仕舞つたと思い私は、やつちやたから電話で警察へ言つて来ると怒鳴つて表に出たのです」と供述(記録三五二丁裏乃至三五五丁表)しており、右供述に徴すれば右判示は事実の認定を誤つている事が明らかで、本件は正当防衛等を以て論ずべき筋合のものではない。

即ちこれを詳述すれば、1、急迫性がない、検察官に対する供述によれば、被告人は小倉から外に出ろと出入口迄引張られたが、余りにしつこいので腹を立てて手を振り切つたところ、小倉が戸口の辺に立て掛けてあつた屋根鋏を取つて被告人に向いチヨキチヨキやつて来たことが認められ、同人は最初から鋏を携えて被告人方土間に立ち入り、突如として被告人に対し鋏を突き付けたような状況のものではない。又その方法も鋏を両手に持つてチヨキチヨキさせながら緩慢に向つて行つたもので、刃先を以て突き刺す様な危険な態勢にはなく、被告人は鋏を目の前の首の辺に向けられたと述べて居るが、証人塚本 重子、小野ようの証言によると、腹の辺に向けられて居て差し迫つた状況は認められない。被告人は公判廷に於て裁判長の間に対し「鋏を突き付けてやつて来るから戻つただけです、小倉が来るので普通歩く位に戻りました、やられては大変だと言う事は全然考えなかつた」と(記録四〇九丁裏四〇八丁裏四一〇丁表)其の間の状況をその真意に基き卒直に述べて、何等切迫感のなかつた事実を明にしている。尚当時小倉が飲酒し相当の酒酔状態にあつた事は被告人の良く承知して居たところであり、従つて被告人は右の如く小倉から掴えられた手を容易に振り放す事も出来、又司法警察員に対し供述しているように、小倉が鋏をチヨキンチヨキンやつて居たが酔つて居た為被告人が鉈を取上げる時鋏を左手で払い除ける事が出来、被告人は体に何等の傷も受けなかつたものである。更に右検察官等に対する供述によれば被告人は後退する時も良く相手の動作を見て、そろそろ腰掛けの方に下つて行き、別によろめいたこともなく、何か足にさわつたので後を振返つて見たら莚である事が判り、且つ背の方の腰掛けの南寄りの方に何時も山仕事に使つて居た鉈の置かれているのを認め、左手で相手の鋏を払い除けると共に右手で鉈を取上げて握持しているもので、その行動に余裕のあつた事が認められる。右の様に、当時の状況は小倉の行為は、動作が緩慢で一瞬の余裕のない切迫したものではなく、急迫性の認められないことが明でをる。尚この事は次に説明する如く、小倉の右行為が真に被告人に危害を加える意思のものでなく、単に威しに過ぎない所為である事からも必然首肯し得られるところである。2、小倉の行為は威しである。被告人は検察官に対し小倉が「この野郎殺しちまうぞ」と言つたと供述して居るが、公判廷においては「何にか喚いたようには思いますが言葉の意味は分りません、喚いたことに対してそう言つたのですと述べているものであつて、(記録四〇九丁)被告人と被害者小倉方とは屋敷続きの裏表にあり日常交際して居る間柄であり、当日も小倉は前記の様に小倉進と喧嘩し、又塚本孝夫を殴つたり、殴られたりして鼻血等を出した事はあるが(記録三〇五丁)被告人は単にその仲裁したのみに止り、小倉が被告人に対し特段に余憤を抱いて居た事情は認められなく、偶々小倉が塚本方に赴いたが、同人が不在の為に立帰る途中被告人方前を通り声を掛けたが、返事がなかつたのでその儘帰りについたところ、被告人が「寅ちやんはもう来ねえ、大した事はねえ、どうせ大した事ねえから」と言つた事を小倉が聞いて、余憤おさまらぬまま酒にも酔つていたので、その不用意な言葉に刺戟され腹を立て「大した事はねえちや何んだ、この野郎表に出ろ」と怒鳴り遂に前記の行為に出たものであつて、小倉に真実被告人に危害を加える意思があつたものとは到底考え得なれない。現に被告人の右発言内容は、小倉の行動が単なる威しであると言う事を自ら表明したものである。証人小野よう、清水正久の証言によると(記録三一四丁裏、三一六丁裏、二九七丁)小倉は酒に酔つたりすると暴れたり、乱暴したり、喧嘩したりした事があつて屋根鋏等を持ち出して殺してやる等と言つて人を追い駈けた事例もあつたが、何時もなだめられては落ちつき、人を殺す様な事をした事もなかつたことが認められる。即ち殺す等と言うことは言葉の上のみの大言で一時の脅迫的な言辞に過ぎない事が認められ、小倉が大したことをする者でなく、その性格行動は隣家である被告人の予てより良く承知して居たところであつて、本件に於ても小倉が酒を飲んで鋏をチヨキチヨキさせた緩慢な行為を見て被告人がこれを単なる威しの行為に過ぎないと看取したことは明であると認められる。3、防衛行為ではない。原判決は被告人がじりじりと後退する中、足許の莚につまづいてよろめき右手が附近の腰掛の上にあつた鉈に触つた旨判示しているが、既に説明した通り、被告人の足に莚が触つたのみで被告人がつまづいてよろめいた事はなく、従つてその結果右手が附近の腰掛けの上に有つた鉈に触つたと言う様な偶然事もない。判決は続いて、茲に於て被告人はそのまま推移すれば真実殺されてしまうものと考え自己の生命身体に対する危険を排除する為咄嗟にその鉈を右手に掴んで相手に一撃を加えたと判示しているが、被告人の前記検察官に対する供述に照せば、被告人は小倉が被告人方に入つて来た当初から酒癖の悪い同人のやり方にいたく腹を立て居たのであり、偶々前記の様に鉈のあることを目撃したので、小倉が酒を飲んだ上とはいいながら塚本等と喧嘩をして迷惑をかけ、更に何等の理由もないのに被告人方に来て屋根鋏を向けてチヨキチヨキさせたので、その余りにも執拗な同人の態度に一時に憤慨、激怒し、鉈で頭を殴り付ければ相手が死ぬ事を承知の上、やつつけてやろうと決意し、目にとまつた右鉈を右手で柄を握つて取上げて「やんならやつぺ此の野郎」と力一杯身体の重要部分である相手の頭に斬りつけ一撃を加え、手応があつて小倉が後によろよろとなつたところを、更に踏み込んで頭の辺りを追い討ちに殴りつけ、其の場に横倒れになるや、尚も三、四回力一杯殴り付けて即死せしめたものであることが認められるので、被告人の右行為は殺意を以て積極的に相手の頭に斬付け攻撃を敢行したのであつて、自己の生命身体を防衛する意思の下になされたものとば到底認められない。被告人は公判において、裁判長の「鉈で小倉に向つたのはどんなつもりか」と問われて答をなしておらず、又「被告人がやらなければ向うにやられるとの気持でやつたのか」との問に対し、「鋏が目の前にあつたから振り廻してよけ様と思つたのです」と供述し、鉈で斬りつけた事が自己の生命身体を防衛する意思の下に為したものであると述べていない(記録四一四丁四一五丁)のみならず被告人は前記の様に被害者が酒にも酔つて居て屋根鋏を左手で左の方に払い除ける事が出来たのでその後に於ては被害者の侵害行為は中断し、最早侵害行為は継続して居なかつたのであるからこれに対しあえて鉈を取つて一撃を加えた事は全く防衛行為とは認められない。4、甚しく恐怖、驚愕、興奮且つ狼狽した行為ではない。原判決は被害者がその場に横転した後の被告人の行為は、小倉の不法行為とこれに基因した異常の出来事により甚した恐怖、驚愕、興奮且つ狼狽した行為であると判示した居るが、右に述べた様な事実関係であつて、被告人が多小興奮したことはあつても甚しく恐怖、驚愕、狼狽に出でた行為とは到底首肯し難く、被告人は相手の態度に激憤の余り殺意を以て充分これを意識しながら積極的に相手に攻撃を加えたものである。この事は被告人の前記司法警察員に対する「倒れてから頭を三、四回続けて切りつけたことははつきり憶えて居ります」旨の供述や、「最初に殴りつけたときに、相手はもう駄目だと考えたのですが私も昂奮していたので、どうせ駄目なら完全に殺して仕舞えと思つて態々頭の方に近付いて行き頭を狙つて三、四回も続けざまに切付けて仕舞つたのです」との供述によつても明なところである。右の通り被告人の所為は防衛の意思を以てなされたものとは認められない。5、已むことを得ざるに出でた行為ではない。本件現場は被告人が日常居住し勝手を充分承知している自家の土間であつて、被告人の前記供述や検証調書の記載によれば当時被告人の立つて居た後(北方)には勝手場があつて、其処に通ずる戸も開いて居り、右勝手場から更に屋外井戸のある方に容易に逃走しうる状況にあつたことが認められる。即ち、被告人にその意思だにあれば、現場より容易に他の場所に避難し、屋外にも逃走する事が出来た事情にあり、被告人は検察官に対し外に逃げ出すことが可能であつたと自認し、只小倉が女達に乱暴を働くようでは困ると心配の余り逃げなかつた旨述べている。然し乍ら右の点については、当時女達は奥座敷に居つて現場とは相当離れており、小倉が同人等に危害を加えるような客観的な状況は皆無であつたので、右弁解は被告人が逃げ得る状況にあつたのに敢て逃げなかつたことの理由となるものではなく、被告人の所為は此の点からするも已むことを得ざるに出でたものとは思料されず、他にも斯る事情は存在しない。以上の通り本件は通常の殺人行為であつて原判決は事実の認定を誤つているものである。

第二、原判決は法律の解釈を誤つた違法がある。

原判決はその判示する如く、被害者が横転する迄の被告人の行為を、刑法第三六条第一項の正当防衛行為、横転した為の被告人の行為を、盗犯等の防止及処分に関する法律第一条第二項第一項第三号に該当する行為で、罪にならないものとして無罪の言渡をなしたが、右は法律の解釈を誤つたものである。既に第一点に於て明にした通り本件は通常の殺人行為であつて防衛行為を以て論ずべき筋合のものではなく、従つて又盗犯等の防止及処分に関する法律の観念を入れる余地のないものである。然るに原判決は被告人の行為を防衛行為となし、右の如く被害者の横転前の行為は急迫不正の侵害に対する防衛行為、後の行為は甚しく恐怖、驚愕、興奮且つ狼狽した余り既に危険の去つたことの認識を欠き一瞬の中に継続した防衛のための追撃行為であると認めて法律技術的な使い別けをなしているが被告人の行為は、瞬時の間に於て相手の頭を数回斬付けた接続した一連行為であつて全くの一個の行為であり、これを前後に区分することは不可能なことである。従つて、これを過剰防衛として論ずることは兎も角、これにつき正当防衛の成立を認めると同時に、盗犯等の防止及処分に関する法律第一条第二項第一項第三号の成立をも認めたことは、畢竟前記のように事実の認定を誤つた結果によるもので、引いて法律の解釈を誤り、罪となるべき事実を罪とならないものと誤解したものである。

以上の理由により原判決は到底破棄を免れない、仍て控訴裁判所に於て更に適正な裁判をせられたく本件控訴に及んだ次第である。

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